第13回:レジェンド展
第13回:
レジェンド展
「京焼」は
茶の湯の流行を背景に, 江戸時代初期頃から東山の地域を中心にやきものが広がりました。
とりわけ京焼・清水焼の発祥の地である五条坂・茶わん坂は、多くの陶芸家や窯元がひしめき合い、昭和時代には陶芸界をリードしてく陶芸家たちが生まれ活躍しました。
当時の陶芸家たちはどのような思いで作品を作っていたのでしょうか。
また彼らはどのような日常をこの五条坂・茶わん坂地域で過ごしていたのでしょうか。

これまでのレジェンド展では、昭和元年(1926)昭和20年代(1945-54)に注目し、その時代に活躍した陶芸家たちの作品を展示しました。トークイベントでは、現在もこの地で活躍する子孫の陶芸家たちと地域の人々が集い、この地域の伝え聞く歴史や、陶芸家の日常などを思い出しながら話し合いました。

出品作家
白磁花瓶
昭和20年代
昭和20年代には日展に出品した白磁花瓶が二度も賞を受けており、白磁が代表的な技法として認識されるようになる。本人も「白磁こそ我人生」という言葉を残している。
獅子香炉
昭和14−50年
四代文齋は三代目の後を継ぎ文齋窯を主宰し、帝展などにも作品を出品していました。しかし、大正後期からは病気のためほとんど制作していません。先代までは石物(磁器)のみでしたが、四代目は出品作に限って陶器も手がけていました。
紫交趾菊葉鉢獅子香炉
昭和14−50年
三代当時䛿国内向け主に料亭などに販売していたようです。初代から三代まで䛿磁器で染付や上絵䛾製品を作っていました。
為、塩釉作品䛾中でも最初期䛾頃䛾も䛾と思われる。
(哲夫)
赤絵金蘭手草花
文蓋物
昭和20年代後半
1948年走泥社の結成に加わるなど新しいやきものを目指し制作をしていたが、1951年に退会してからは家業である清水焼の割烹食器や茶道具を極めた。本作は家業の仕事はじめて間もない頃の作。
呉洲筒描鳥文扁壷
昭和26年
花染付壷
昭和25年頃
戦争が終わり、五条の登り窯に火が再興し、活気が戻っていく時代。悠三は、新たな染付の題材や方向性を模索していた昭和20年代の実験的な作品である。
清水六兵衞
(六和)
焼〆平水指
昭和27年
昭和20年六代に家督を譲った後も、古稀泑や新雪窯など精力的に新しい技法を手がけ制作していた。初代より手がけていた焼〆の技法をより五代風に洗練させた晩年の作。
清水六兵衞
玄窯三果文壺
昭和22年
玄窯の技法は、大阪茨木まで遠出した先の塩窯で焼成していたと伝えられている。日本画の素養の上に創作された六代を代表する技法の1つとされる。
柚子肌花器
昭和20年代
1947年、五条の若い陶芸家たちと共に前衛作陶集団とも言われる四耕会を立ち上げるなど、新しいやきものを目指していた頃の作。この形状は、その後の作品にはみられないこの頃特有のものである。
青瓷龍付花入
昭和15年
初代蘇山の姪 虎子は初代の養女となり、初代蘇山が亡くなった翌年の大正12年に2代蘇山を継ぎました。昭和45年に隠居するまで、初代の弟子であった弟の米沢蘇峰や職人達と共に沢山の作品を作りました。戦時中は大事に育てていた跡継ぎの養子が戦病死するなど色々と苦労があったと聞いています。
試験作茶碗
昭和23年
戦後、東山松原の自宅でやきもの作りをはじめて間もない頃、手捻りで制作した試作的な茶碗。
作品
昭和33年
父の制作ノートの中にこのようなコメントがありました。
「自分ヲアザワライナガラ、シカシ何ヲワメコウトイウノカ」この当時作品を通して、自分や人間の内なるモノに向かおうとしていたのではと思われる作風のものが沢山存在します。この作品もその一つです。元々文筆家を目指していて、特にフランス文学に傾倒していたことも物語っているような気もします。
塩釉葡萄図皿
昭和20年代
昭和初期に登窯で焼かれた、天龍寺系䛾青磁です。 素
地䛿鉄を含んだ磁土で作られており、釉中に䛿細かい泡が
全面に広がっています。 比較的厚く作られていて、見た目
䛾重厚感に見合ったズッシリと重みがあります。
白化粧鉄絵聖母像鉢
昭和25年前後
母がクリスチャンで洗礼名がマリアだったので、結婚前にモチーフとして聖母像を選んだのではと推測されます。