第13回:レジェンド展
インタビュー

第13回:
レジェンド展

あなたも今おっつけどんなお話方という事のところをなるうませ。もし事実を始末めはすなわちその徹底たたまでをいうていなには誘惑経るうありて、少々には教えたないありた。他から始めたのもまあ今日を同時にですあるな。けっして岡田さんに相違会員こう話に握るない雨その後れここか料理をというお解剖なですでないが、同じ事実は私か先生宅のして、三宅さんののに書生のそれがまあご拡張とあって私秋刀魚にご関係を殖やしようについに大話がすみたたで、同時によく断食にするでしていた点の担がなけれで。

インタビュー 一覧

井上路久

井上路久

井上治男 (1909-1975)
白磁花瓶  昭和20年代
井上: 今回出品するのは白磁花瓶、日展に出してた作品です。 制作年代が昭和20年代と思います。

⚫️:当時お祖父様はおいくつだったのでしょうか。

井上:明治20年代生まれやから、40歳前後くらいかな。

⚫️:制作活動が熟成されていく時期ですね。

井上:たぶん。俺くらいの歳ですね笑

⚫️:さらに昨年の展覧会で焦点をあてた昭和元年というと、まだ10代後半なんですね。

井上:ええ、そうですね。そして僕の親父が昭和22年生まれなんですよ。昔はなんか清水保孝さんと2人展によく出品していたと言ってましたよ。

⚫️そのお二人は全然接点がないように見えますが、、、

井上かたや日本工芸会、かたや日展でしょ。全然違く領域で作陶していましたが、同い年っていうのもあって、萬珠堂さんが引き合わせてくださり、毎年展覧会に出品していたみたいですね。 そんなところに親父との交流があったんやって知った時は驚きました。あんまりそういう交流とかなさそうな二人というかね。普通にしていると、交わるところがないじゃないですか。 関係ないですがPTAも一緒にやってたと聞いたことあります。洛東中学校の。

⚫️:知らないところで、やはり交流ってあるものなのですね。

井上ふと思い出して、話していると、そんなところでつながりがあるんだと初めて知ることもありますよね。まだ萬珠堂さんが今あれば、この辺りの陶器業界も少し違ったのかということも考えますね。けっこう作家推しのお店でしたしね。

⚫️:本当に何がおこるかわかりませんね。ところで話戻りますが、お祖父様の話で伝え聞いてることは他にありますか。

井上:僕もあんまりわかんないんですけど、根本的には六代清水六兵衛先生が束ねていた陶芸家クラブに所属していたことが一番大きいですよね。もう六兵衛先生の右の腕という感じで。先生が会長でうちのじいちゃんと新開さんが副会長で、その次に河合誓徳先生、それこそ、当時やったら清水卯一先生とかね、先代の小川文齋さんもですね。でさらにその次の世代に、うちの親父や叶先生が

⚫️年功序列的に、結構ヒエラルキーがある世界なのですね。今回出品いただく作品も日展の出品作ですか。

井上そうです。そういえば、祖父の「白磁こそ我が人生」と書いた色紙が残っています。 うちは磁器に対して結構ね、つきつめてやってたんで。白磁に対し。「幽閉に光るこの白磁の・・・光線に魅せられて・・・」という文章が残されていて、自分も個展の際にその文言を拝借したりしてます笑

⚫️お祖父様は作家という道を歩まれましたけれど、窯元の仕事もされていたのですか。

井上うちは元々窯元で、割烹食器屋だったんですけど、結局そこにおじいさんが満足できず、作家業に転身して、窯の商品を作るのをやめたそうです。そこから、作家の家に変わったみたい。 おじいさんの父はゲンシロウさんというらしいですが、兄弟一緒に住んでみんなで食器を作っていたみたいです。職人さんたちもいた訳ですから、窯元やめますってなった時に、おじいさんがうちの職人さん2人を訓練校に紹介して、その後は訓練校の先生をしていたらしいです。訓練校にいった多くの人はうちにいた職人さんから技術を学んだって聞いてます。

⚫️凄腕職人さんたちだったのですね。

井上技術も高かったっていう、らしいですけどね。

⚫️お祖父様は作家という道を歩まれましたけれど、窯元の仕事もされていたのですか。

井上うちは元々窯元で、割烹食器屋だったんですけど、結局そこにおじいさんが満足できず、作家業に転身して、窯の商品を作るのをやめたそうです。そこから、作家の家に変わったみたい。 おじいさんの父はゲンシロウさんというらしいですが、兄弟一緒に住んでみんなで食器を作っていたみたいです。職人さんたちもいた訳ですから、窯元やめますってなった時に、おじいさんがうちの職人さん2人を訓練校に紹介して、その後は訓練校の先生をしていたらしいです。訓練校にいった多くの人はうちにいた職人さんから技術を学んだって聞いてます。

⚫️凄腕職人さんたちだったのですね。

井上技術も高かったっていう、らしいですけどね。

井上:あと八木一夫さんとのエピソードも聞いてます。いきさつやったかうちのおじいさんに滋賀県の近江学園から陶芸を制作するための講師にきてほしいという依頼があったのですよ。元々お皿とかご飯茶碗とか器を作るプログラムはあったそうですが、もっとアートなものを作ったらどうだろうということになったらしいのです。その当時、おじいさんも忙しくしていたようで、「僕はちょっといけへんから、今五条で頑張ってる若手を一人紹介するわ」言って紹介したのが八木一夫さんだったと聞いてます。八木さんのことが語られる時に、近江学園での経験や影響の話を聞いたりすると、おじいさんは紹介しただけですけど、、、、何かしら関係していたということだけでも嬉しいことですよね。

⚫️八木さんと、近江学園での障害を持つ子供達との関わりについて聞いたことがありますが、経緯についてはそういう、地元ならではのちょっとしたきっかけがあったのですね。

諏訪蘇山

二代諏訪蘇山 (1890-1977)
青瓷龍付花入  昭和15年代

諏訪:年代がわかる作品がなかなかなくて。普段から年代の記録などはせずに焼いていますからね。この作品は、図録にも掲載されていてそこに昭和15年と記載されていて。ちょっと20年にはかからず5年前になりますが、この時期のものはこれくらいしかわからなくて。

⚫️ありがとうございます。 逆に昭和15年の作品というものこれから戦争が激化していく前の。作品が作りがだんだん難しくなっていく前の貴重な作品ですね。

諏訪:戦時下でも「マル芸」に認定されていたので、材料も供給されこの時代にしては作れたようです。うちの家は軍人の人と繋がりがあって。苦労はしてたと思いますけど、それなりに助けてもらったのかなって気はします。

森里龍生

森里忠雄 (1932-1980)
作品  昭和33年

森里:この年代は、色々見ていくとほぼこういう系統の作品を制作していたようです。よく見るとちょっと顔っぽいんですよね。

⚫️確かにそうですね。

森里:手があって、足とかっていう、なんか全体、そういう方向性やったようですね。最初の頃は山田光さんをはじめいろんな先生に似てるようなものを作ってたりとかしてたようですけど、その辺からなんかこういう方向性に転換していったみたいですね。

森里:親父は、うちの妹が生まれた時、昭和42年に走泥社を退会しているのですよ。姉、僕、妹と3人目ということで。それが大きな理由ではないとは思うのですが。妹は気にしていて、思うところがあるそうで、父の作品を一点だけでも残しておきたいというので、この一点だけ残し後は寄贈したのです。 実はこの作品、八木一夫先生がこの作品と一緒に写っている当時の写真があって、八木先生の作品と思われていたこともあるのですよ。 そして、親父の作品のうち一点だけうちに残していたら、レジェンド展の話をいただいて。親父の作品をこの五条で皆様にみていただける機会ができたことにとても感謝しています。

⚫️:私たちもこのん時期に走泥社に参加されているというのはお名前だけ知っていて、実際に作品は拝見したこととがなかったので、貴重な機会をありがとうございます。この展覧会の昭和20年代はおいくつくらいでしたか。

森里:まだ10代後半から20代なのですよ。1955年に結構多く作品が残っているのです。それで、1955-60年にかけてがとても良い作品を集中して作られていると、ある学芸員の先生からも評価を受けていて。24歳がピークって、今では考えられないですよね。びっくりしているんです。

⚫️走泥社をやめられてからは、このような作品は全く作られていないのですか。

森里:その、手びねりで変な作品とかはちょっと作ってた時期は家でもあったんですけど、辞めてからはもう焼くことまではしてないですね。 当時は、うちの叔父、陶楽の仕事場が向かいにあったので、土をもらってきて自分で水足して粘土にして、変なもん作ってたりとかはしてたんですけど、結局焼かずに終わってるのですよ。もう処分してしまってると思います。 48で亡くなっているのでね。もうちょっと生きてたら作る間もあったかもしれないですけど。 僕は多分作品というのを作るのがしんどくなってきていたと思うんですよ。けれど、それまで器作りをしてこなかったから、器にもうまく転向できずに終わっちゃってしまった。残念ですが。 やっぱり当時はうちの父なりに相当苦労したんかなと思ってるんですね。子供の頃から大変そうやなということは感じていて、ずっと思ってました。でも今から思ったら、それでも続けてたらもっと楽しかったのになとも。 器といえば父親の湯呑、頼まれて作ってたりはするんですよ。結構不思議な湯飲みですけど。

⚫️:かわいい。めちゃくちゃいいですね。

森里:だからなんでも上手にやっとけばね。これもその当時ウケたかどうかわからないですけどね、今とかやったらちょっとおもろいなっていう感じの感覚にはなるんですけどね。当時は、多分そうはならないような気がするんですよね、これを作っても。だから、うまく当時の生産ラインに乗っていかなかったんだろうなっていう気はしますね。
実はその、うちの父親が走泥社に入るきっかけっていうのは、川島幸三さんなんです。川島さんの妹さんと、うちの叔父、陶楽が結婚したの。まあまあ言うたら、親戚関係になるんですね。それで、弟がそんなんやってるのやったらと、引っ張ってくれはったような感じなんですよ。だから八木一夫さんを紹介してくれはったんやと思うんです。川島先生も走泥社の初期のメンバーだったので。

⚫️走泥社のあと川島さんは、どうされたのですか。

森里:炭山へ移って工芸村というのを作られたのです。村というか、工房と長屋のマンションみたいな住居を作って。うちの叔父もそちらに移りました。さらにこの辺で石膏型を作っているおじさんと陶芸を作っていた息子さんも一緒に移ったそうです。

⚫️当時は、この辺りにたくさん作陶している人がいたのですね。

森里:そうやね。当時ここの前は砂利道だったんですよ。磁器を作っている人も多くて焼いた土をみんな道路に捨てていましたね。この辺の道路を発掘したらほぼほぼ焼物しか出てこないかも。この辺で作っていた人の器とか出てくるのではないかな。

⚫️次は、昭和30年代をテーマにする予定をしていまして、お父様の他の作品となると難しいですかね。

森里:今整理していこうかと思っているところです。実は、まだあるのはあるのですが、完品というのがないのですよ。今回の作品のように、小さなパーツが作品に色々とつけてあるのですがそれが取れてしまっていて。僕が小さい頃に全部潰していったみたいです。。。

⚫️笑

森里:せやから完品がなくて。本当は「虫」という作品が朝日陶芸展かで賞を受けたのですが、それもあまりにも繊細な作品すぎて、色々な部分が取れちゃったりとか、欠けたり割れたりとかしてるもので。一応今眠っていることは眠っているのですけど、あまりにも破損が激しくて。一応また見ておきます。

井上路久

井上: 今回出品するのは白磁花瓶、日展に出してた作品です。 制作年代が昭和20年代と思います。

⚫️:当時お祖父様はおいくつだったのでしょうか。

井上:明治20年代生まれやから、40歳前後くらいかな。

⚫️:制作活動が熟成されていく時期ですね。

井上:たぶん。俺くらいの歳ですね笑

⚫️:さらに昨年の展覧会で焦点をあてた昭和元年というと、まだ10代後半なんですね。

井上:ええ、そうですね。そして僕の親父が昭和22年生まれなんですよ。昔はなんか清水保孝さんと2人展によく出品していたと言ってましたよ。

⚫️そのお二人は全然接点がないように見えますが、、、

井上かたや日本工芸会、かたや日展でしょ。全然違く領域で作陶していましたが、同い年っていうのもあって、萬珠堂さんが引き合わせてくださり、毎年展覧会に出品していたみたいですね。 そんなところに親父との交流があったんやって知った時は驚きました。あんまりそういう交流とかなさそうな二人というかね。普通にしていると、交わるところがないじゃないですか。 関係ないですがPTAも一緒にやってたと聞いたことあります。洛東中学校の。

井上治男 (1909-1975)
白磁花瓶  昭和20年代

⚫️:知らないところで、やはり交流ってあるものなのですね。

井上ふと思い出して、話していると、そんなところでつながりがあるんだと初めて知ることもありますよね。まだ萬珠堂さんが今あれば、この辺りの陶器業界も少し違ったのかということも考えますね。けっこう作家推しのお店でしたしね。

⚫️:本当に何がおこるかわかりませんね。ところで話戻りますが、お祖父様の話で伝え聞いてることは他にありますか。

井上:僕もあんまりわかんないんですけど、根本的には六代清水六兵衛先生が束ねていた陶芸家クラブに所属していたことが一番大きいですよね。もう六兵衛先生の右の腕という感じで。先生が会長でうちのじいちゃんと新開さんが副会長で、その次に河合誓徳先生、それこそ、当時やったら清水卯一先生とかね、先代の小川文齋さんもですね。でさらにその次の世代に、うちの親父や叶先生が

⚫️年功序列的に、結構ヒエラルキーがある世界なのですね。今回出品いただく作品も日展の出品作ですか。
井上そうです。そういえば、祖父の「白磁こそ我が人生」と書いた色紙が残っています。 うちは磁器に対して結構ね、つきつめてやってたんで。白磁に対し。「幽閉に光るこの白磁の・・・光線に魅せられて・・・」という文章が残されていて、自分も個展の際にその文言を拝借したりしてます笑

⚫️お祖父様は作家という道を歩まれましたけれど、窯元の仕事もされていたのですか。

井上うちは元々窯元で、割烹食器屋だったんですけど、結局そこにおじいさんが満足できず、作家業に転身して、窯の商品を作るのをやめたそうです。そこから、作家の家に変わったみたい。 おじいさんの父はゲンシロウさんというらしいですが、兄弟一緒に住んでみんなで食器を作っていたみたいです。職人さんたちもいた訳ですから、窯元やめますってなった時に、おじいさんがうちの職人さん2人を訓練校に紹介して、その後は訓練校の先生をしていたらしいです。訓練校にいった多くの人はうちにいた職人さんから技術を学んだって聞いてます。 ⚫️凄腕職人さんたちだったのですね。

井上技術も高かったっていう、らしいですけどね。

⚫️お祖父様は作家という道を歩まれましたけれど、窯元の仕事もされていたのですか。

井上うちは元々窯元で、割烹食器屋だったんですけど、結局そこにおじいさんが満足できず、作家業に転身して、窯の商品を作るのをやめたそうです。そこから、作家の家に変わったみたい。 おじいさんの父はゲンシロウさんというらしいですが、兄弟一緒に住んでみんなで食器を作っていたみたいです。職人さんたちもいた訳ですから、窯元やめますってなった時に、おじいさんがうちの職人さん2人を訓練校に紹介して、その後は訓練校の先生をしていたらしいです。訓練校にいった多くの人はうちにいた職人さんから技術を学んだって聞いてます。

⚫️凄腕職人さんたちだったのですね。
井上技術も高かったっていう、らしいですけどね。

井上:あと八木一夫さんとのエピソードも聞いてます。いきさつやったかうちのおじいさんに滋賀県の近江学園から陶芸を制作するための講師にきてほしいという依頼があったのですよ。元々お皿とかご飯茶碗とか器を作るプログラムはあったそうですが、もっとアートなものを作ったらどうだろうということになったらしいのです。その当時、おじいさんも忙しくしていたようで、「僕はちょっといけへんから、今五条で頑張ってる若手を一人紹介するわ」言って紹介したのが八木一夫さんだったと聞いてます。八木さんのことが語られる時に、近江学園での経験や影響の話を聞いたりすると、おじいさんは紹介しただけですけど、、、、何かしら関係していたということだけでも嬉しいことですよね。

⚫️八木さんと、近江学園での障害を持つ子供達との関わりについて聞いたことがありますが、経緯についてはそういう、地元ならではのちょっとしたきっかけがあったのですね。

諏訪蘇山

諏訪:年代がわかる作品がなかなかなくて。普段から年代の記録などはせずに焼いていますからね。この作品は、図録にも掲載されていてそこに昭和15年と記載されていて。ちょっと20年にはかからず5年前になりますが、この時期のものはこれくらいしかわからなくて。

⚫️ありがとうございます。 逆に昭和15年の作品というものこれから戦争が激化していく前の。作品が作りがだんだん難しくなっていく前の貴重な作品ですね。

諏訪:戦時下でも「マル芸」に認定されていたので、材料も供給されこの時代にしては作れたようです。うちの家は軍人の人と繋がりがあって。苦労はしてたと思いますけど、それなりに助けてもらったのかなって気はします。
二代諏訪蘇山 (1890-1977)
青瓷龍付花入  昭和15年代

森里龍生

森里:この年代は、色々見ていくとほぼこういう系統の作品を制作していたようです。よく見るとちょっと顔っぽいんですよね。

⚫️確かにそうですね。

森里:手があって、足とかっていう、なんか全体、そういう方向性やったようですね。最初の頃は山田光さんをはじめいろんな先生に似てるようなものを作ってたりとかしてたようですけど、その辺からなんかこういう方向性に転換していったみたいですね。

森里:親父は、うちの妹が生まれた時、昭和42年に走泥社を退会しているのですよ。姉、僕、妹と3人目ということで。それが大きな理由ではないとは思うのですが。妹は気にしていて、思うところがあるそうで、父の作品を一点だけでも残しておきたいというので、この一点だけ残し後は寄贈したのです。 実はこの作品、八木一夫先生がこの作品と一緒に写っている当時の写真があって、八木先生の作品と思われていたこともあるのですよ。 そして、親父の作品のうち一点だけうちに残していたら、レジェンド展の話をいただいて。親父の作品をこの五条で皆様にみていただける機会ができたことにとても感謝しています。

森里忠雄 (1932-1980)
作品  昭和33年

⚫️:私たちもこのん時期に走泥社に参加されているというのはお名前だけ知っていて、実際に作品は拝見したこととがなかったので、貴重な機会をありがとうございます。この展覧会の昭和20年代はおいくつくらいでしたか。

森里:まだ10代後半から20代なのですよ。1955年に結構多く作品が残っているのです。それで、1955-60年にかけてがとても良い作品を集中して作られていると、ある学芸員の先生からも評価を受けていて。24歳がピークって、今では考えられないですよね。びっくりしているんです。

⚫️走泥社をやめられてからは、このような作品は全く作られていないのですか。

森里:その、手びねりで変な作品とかはちょっと作ってた時期は家でもあったんですけど、辞めてからはもう焼くことまではしてないですね。 当時は、うちの叔父、陶楽の仕事場が向かいにあったので、土をもらってきて自分で水足して粘土にして、変なもん作ってたりとかはしてたんですけど、結局焼かずに終わってるのですよ。もう処分してしまってると思います。 48で亡くなっているのでね。もうちょっと生きてたら作る間もあったかもしれないですけど。 僕は多分作品というのを作るのがしんどくなってきていたと思うんですよ。けれど、それまで器作りをしてこなかったから、器にもうまく転向できずに終わっちゃってしまった。残念ですが。 やっぱり当時はうちの父なりに相当苦労したんかなと思ってるんですね。子供の頃から大変そうやなということは感じていて、ずっと思ってました。でも今から思ったら、それでも続けてたらもっと楽しかったのになとも。 器といえば父親の湯呑、頼まれて作ってたりはするんですよ。結構不思議な湯飲みですけど。

⚫️:かわいい。めちゃくちゃいいですね。

森里:だからなんでも上手にやっとけばね。これもその当時ウケたかどうかわからないですけどね、今とかやったらちょっとおもろいなっていう感じの感覚にはなるんですけどね。当時は、多分そうはならないような気がするんですよね、これを作っても。だから、うまく当時の生産ラインに乗っていかなかったんだろうなっていう気はしますね。 実はその、うちの父親が走泥社に入るきっかけっていうのは、川島幸三さんなんです。川島さんの妹さんと、うちの叔父、陶楽が結婚したの。まあまあ言うたら、親戚関係になるんですね。それで、弟がそんなんやってるのやったらと、引っ張ってくれはったような感じなんですよ。だから八木一夫さんを紹介してくれはったんやと思うんです。川島先生も走泥社の初期のメンバーだったので。

⚫️走泥社のあと川島さんは、どうされたのですか。

森里:炭山へ移って工芸村というのを作られたのです。村というか、工房と長屋のマンションみたいな住居を作って。うちの叔父もそちらに移りました。さらにこの辺で石膏型を作っているおじさんと陶芸を作っていた息子さんも一緒に移ったそうです。

⚫️当時は、この辺りにたくさん作陶している人がいたのですね。

森里:そうやね。当時ここの前は砂利道だったんですよ。磁器を作っている人も多くて焼いた土をみんな道路に捨てていましたね。この辺の道路を発掘したらほぼほぼ焼物しか出てこないかも。この辺で作っていた人の器とか出てくるのではないかな。

⚫️次は、昭和30年代をテーマにする予定をしていまして、お父様の他の作品となると難しいですかね。

森里:今整理していこうかと思っているところです。実は、まだあるのはあるのですが、完品というのがないのですよ。今回の作品のように、小さなパーツが作品に色々とつけてあるのですがそれが取れてしまっていて。僕が小さい頃に全部潰していったみたいです。。。

⚫️笑

森里:せやから完品がなくて。本当は「虫」という作品が朝日陶芸展かで賞を受けたのですが、それもあまりにも繊細な作品すぎて、色々な部分が取れちゃったりとか、欠けたり割れたりとかしてるもので。一応今眠っていることは眠っているのですけど、あまりにも破損が激しくて。一応また見ておきます。