本展は、やきもののまち東山五条において昭和時代に活躍したレジェンドたちにスポットを当てた試みです。近藤悠三記念館において作品の展示を行うとともに、レジェンド達の日常や人物像にも迫ります。
実際に当時活躍したレジェンド達は、どのような日常を送り、作品作りを行っていたのでしょうか。またレジェンド同士の交流はあったのでしょうか。
わん碗ONEの会員でもあるご遺族の方々にご協力いただき、受け継がれているエピソードや、思い出に残るエピソードなど、インタビュー形式でお話を伺いました。私たちの地域から捉えた五条のやきものの歴史を新たに発信していきます。
インタビュアー
清水愛子
祖父・父・弟の陶芸作品を扱う店・五条坂清水にて陶芸にまつわるイベントを行う他、五条エリアの様々なお店と若手陶芸家を繋げる「京都・五条やきもの市」を主催。
革新を積み重ねてきた五条の歴史をどのように受け継ぎ次へと繋いでいくことができるのか模索しつつ活動を行っている。
京都工芸繊維大学博士後期課程修了。
博士(学術)
共著に『京都伝統工芸の近代』(思文閣出版、2012)、『京都 近代美術工芸のネットワーク』(思文閣出版、2017)
井上路久
プロフィール
- 清水: レジェンド展に出品いただいた作品の作者とはどのような関係にあるのか(孫、娘など)
- 井上: 孫
- 清水: その作者がかつて使っていた工房で引き継ぎ制作されていますか。どのような時にその方の痕跡を感じますか。
- 井上: 引き続き工房を使っている。
筆入やカンナ入など、身近な作業場に置いてある時。 - 清水: 普段の活動・作風について。そこにその作者の影響があればどのようなところなのか、あるいはどのようなところを意識したり、引き継いだりされておられますか。
- 井上: 素材の磁器を用いてロクロ成形にこだわりを持って制作しています。
作品の品を重要に考え、凜とした中にも激しさがある作風を意識しています。
白磁花瓶 昭和20年代
インタビュー
清水さん
今回ご出品いただいた作品について教えていただけますか。
井上さん
今回出品するのは白磁花瓶、日展に出してた作品です。
制作年代が昭和20年代と思います。
清水さん
当時お祖父様はおいくつだったのでしょうか。
井上さん
明治20年代生まれやから、40歳前後くらいかな。
清水さん
制作活動が熟成されていく時期ですね。
井上さん
たぶん。俺くらいの歳ですね笑
清水さん
さらに昨年の展覧会で焦点をあてた昭和元年というと、まだ10代後半なんですね。
井上さん
ええ、そうですね。そして僕の親父が昭和22年生まれなんですよ。
昔はなんか清水保孝さんと2人展によく出品していたと言ってましたよ。
清水さん
そのお二人は全然接点がないように見えますが、、、
井上さん
かたや日本工芸会、かたや日展でしょ。全然違く領域で作陶していましたが、同い年っていうのもあって、萬珠堂さんが引き合わせてくださり、毎年展覧会に出品していたみたいですね。 そんなところに親父との交流があったんやって知った時は驚きました。あんまりそういう交流とかなさそうな二人というかね。普通にしていると、交わるところがないじゃないですか。 関係ないですがPTAも一緒にやってたと聞いたことあります。洛東中学校の。
清水さん
知らないところで、やはり交流ってあるものなのですね。
井上さん
ふと思い出して、話していると、そんなところでつながりがあるんだと初めて知ることもありますよね。まだ萬珠堂さんが今あれば、この辺りの陶器業界も少し違ったのかということも考えますね。けっこう作家推しのお店でしたしね。
清水さん
本当に何がおこるかわかりませんね。ところで話戻りますが、お祖父様の話で伝え聞いてることは他にありますか。
井上さん
僕もあんまりわかんないんですけど、根本的には六代清水六兵衛先生が束ねていた陶芸家クラブに所属していたことが一番大きいですよね。もう六兵衛先生の右の腕という感じで。先生が会長でうちのじいちゃんと新開さんが副会長で、その次に河合誓徳先生、それこそ、当時やったら清水卯一先生とかね、先代の小川文齋さんもですね。でさらにその次の世代に、うちの親父や叶先生が
清水さん
年功序列的に、結構ヒエラルキーがある世界なのですね。
今回出品いただく作品も日展の出品作ですか。
井上さん
そうです。そういえば、祖父の「白磁こそ我が人生」と書いた色紙が残っています。 うちは磁器に対して結構ね、つきつめてやってたんで。白磁に対し。「幽閉に光るこの白磁の・・・光線に魅せられて・・・」という文章が残されていて、自分も個展の際にその文言を拝借したりしてます笑
清水さん
お祖父様は作家という道を歩まれましたけれど、窯元の仕事もされていたのですか
井上さん
うちは元々窯元で、割烹食器屋だったんですけど、結局そこにおじいさんが満足できず、作家業に転身して、窯の商品を作るのをやめたそうです。そこから、作家の家に変わったみたい。
おじいさんの父はゲンシロウさんというらしいですが、兄弟一緒に住んでみんなで食器を作っていたみたいです。
職人さんたちもいた訳ですから、窯元やめますってなった時に、おじいさんがうちの職人さん2人を訓練校に紹介して、その後は訓練校の先生をしていたらしいです。訓練校にいった多くの人はうちにいた職人さんから技術を学んだって聞いてます。
清水さん
凄腕職人さんたちだったのですね。
井上さん
技術も高かったっていう、らしいですけどね。
あと八木一夫さんとのエピソードも聞いてます。
どういういきさつやったかうちのおじいさんに滋賀県の近江学園から陶芸を制作するための講師にきてほしいという依頼があったのですよ。元々お皿とかご飯茶碗とか器を作るプログラムはあったそうですが、もっとアートなものを作ったらどうだろうということになったらしいのです。その当時、おじいさんも忙しくしていたようで、「僕はちょっといけへんから、今五条で頑張ってる若手を一人紹介するわ」言って紹介したのが八木一夫さんだったと聞いてます。八木さんのことが語られる時に、近江学園での経験や影響の話を聞いたりすると、おじいさんは紹介しただけですけど、、、、何かしら関係していたということだけでも嬉しいことですよね。
清水さん
八木さんと、近江学園での障害を持つ子供達との関わりについて聞いたことがありますが、経緯についてはそういう、地元ならではのちょっとしたきっかけがあったのですね。
井上さん
3年前くらいに近江学園から電話があり、100周年かなんかの記念で、本を出版するということで、八木さんがなぜ近江学園で教えるようになったのかという経緯についての質問があり、井上治男さんからご紹介いただいたっていうことになってるんですけど、本当ですかって。結局のところそういうことになっているけど、実際のところは僕も知りませんわ笑。
清水さん
ほとんど話せるようにことなないと聞いていても、お話を実際に伺って話てみると、ふとした日常から生まれるエピソードが意外に興味深いことであったり、この地域だからこその繋がりを知ることができました。ありがとうございます。

諏訪蘇山
プロフィール
- 清水: レジェンド展に出品いただいた作品の作者とはどのような関係にあるのか。
- 諏訪: 大叔母
- 清水: その作者がかつて使っていた工房で引き継ぎ制作されていますか。どのような時にその方の痕跡を感じますか。
- 諏訪: 同じ工房で制作しています。二代の残した作品や石膏型、資料などはたくさん残っています。また、同じところで茶道を学んでいて、お稽古の時に二代の作品やそれにまつわる話を聞くことができます。
- 清水: 普段の活動・作風について。そこにその作者の影響があればどのようなところなのか、あるいはどのようなところを意識したり、引き継いだりされておられますか。
- 諏訪: 代々引き継いでいる青瓷の色はもちろん、二代の残した作品の形や大きさは、貴重な財産だと思います。また、我が家に残るものは難ありの物が多いので、そこから二代の試行錯誤を感じることができます。
青瓷龍付花入 昭和15年代
インタビュー
清水さん
今回の作品について、いつごろ作られたものですか。
諏訪さん
年代がわかる作品がなかなかなくて。普段から年代の記録などはせずに焼いていますからね。この作品は、図録にも掲載されていてそこに昭和15年と記載されていて。ちょっと20年にはかからず5年前になりますが、この時期のものはこれくらいしかわからなくて。
清水さん
ありがとうございます。
逆に昭和15年の作品というものこれから戦争が激化していく前の。作品が作りがだんだん難しくなっていく前の貴重な作品ですね。
諏訪さん
戦時下でも「マル芸」に認定されていたので、材料も供給されこの時代にしては作れたようです。うちの家は軍人の人と繋がりがあって。苦労はしてたと思いますけど、それなりに助けてもらったのかなって気はします。
清水さん
初代蘇山さんのことは、広く知られていますが2代さまのことは知る機会が少なくて。何か伝え聞かれているエピソードなどありますでしょうか。
諏訪さん
実はほとんどわからないのですが、、、この戦争時の話とえば、2代の後継として養子さんを親戚から迎えて、小学生か中学生ぐらいの時から育て、工芸繊維大学の前身の京都高等工芸学校かな、に行ってはったんですよ。馬術部で乗馬ができるということで、卒業するかしないかの時期に戦争にいくことになり、赴任先の中国で戦病死してしまったのです。その時はすごく悲しんだと聞いています。
そこで、2代の弟にあたる米澤蘇峰家には息子が2人いる、ということで次男のうちの父が養子に入り継ぐことになったそうです。
清水さん
2代から3代へ代を継がれる際には、そのようなお話もあったのですね。
またお父様は、先代の小川文斎さんとも親しくされていたのですよね。
諏訪さん
そうです。本当によく行き来して仲良くしていて、先に生き残った方が葬儀委員長するという約束をしていたそうです。
森里龍生
森里忠男 長男
プロフィール
父の仕事場があった場所に自分の工房があります。しかしながら記憶の痕跡しか無いです。
小さい頃、父の居ない時に内緒で仕事場に出入りして、色々な道具や作品を触っていた思い出が残っています。
現在、父が使っていた70年前の道具で使える物は今だに使っています。祖父の時代のものもあります。
父は色々な物語を語ることが好きで、子供のときにに聞いた話が今だに記憶の片隅に残っています。そういう父の存在そのものが、作品創りに影響されたり、意識しているところになるのではなかろうかと思います。
他には父の作品は売れた試しが無いといつも母が言っていたのが、幼心に大きく響いて、売れる陶芸をしないとと思ってしまっていました。
作品 昭和33年
インタビュー
清水さん
今回の作品について、どのような経緯で作られたものか教えていただけますか。
森里さん
この年代は、色々見ていくとほぼこういう系統の作品を制作していたようです。よく見るとちょっと顔っぽいんですよね。
清水さん
確かにそうですね。
森里さん
手があって、足とかっていう、なんか全体、そういう方向性やったようですね。最初の頃は山田光さんをはじめいろんな先生に似てるようなものを作ってたりとかしてたようですけど、その辺からなんかこういう方向性に転換していったみたいですね。
親父は、うちの妹が生まれた時、昭和42年に走泥社を退会しているのですよ。姉、僕、妹と3人目ということで。それが大きな理由ではないとは思うのですが。妹は気にしていて、思うところがあるそうで、父の作品を一点だけでも残しておきたいというので、この一点だけ残し後は寄贈したのです。
実はこの作品、八木一夫先生がこの作品と一緒に写っている当時の写真があって、八木先生の作品と思われていたこともあるのですよ。
そして、親父の作品のうち一点だけうちに残していたら、レジェンド展の話をいただいて。親父の作品をこの五条で皆様にみていただける機会ができたことにとても感謝しています。
清水さん
私たちもこのん時期に走泥社に参加されているというのはお名前だけ知っていて、実際に作品は拝見したこととがなかったので、貴重な機会をありがとうございます。
この展覧会の昭和20年代はおいくつくらいでしたか。
森里さん
まだ10代後半から20代なのですよ。1955年に結構多く作品が残っているのです。それで、1955-60年にかけてがとても良い作品を集中して作られていると、ある学芸員の先生からも評価を受けていて。24歳がピークって、今では考えられないですよね。びっくりしているんです。
清水さん
走泥社をやめられてからは、このような作品は全く作られていないのですか
森里さん
その、手びねりで変な作品とかはちょっと作ってた時期は家でもあったんですけど、辞めてからはもう焼くことまではしてないですね。
当時は、うちの叔父、陶楽の仕事場が向かいにあったので、土をもらってきて自分で水足して粘土にして、変なもん作ってたりとかはしてたんですけど、結局焼かずに終わってるのですよ。もう処分してしまってると思います。
48で亡くなっているのでね。もうちょっと生きてたら作る間もあったかもしれないですけど。
僕は多分作品というのを作るのがしんどくなってきていたと思うんですよ。けれど、それまで器作りをしてこなかったから、器にもうまく転向できずに終わっちゃってしまった。残念ですが。
やっぱり当時はうちの父なりに相当苦労したんかなと思ってるんですね。子供の頃から大変そうやなということは感じていて、ずっと思ってました。でも今から思ったら、それでも続けてたらもっと楽しかったのになとも。
器といえば父親の湯呑、頼まれて作ってたりはするんですよ。結構不思議な湯飲みですけど。
清水さん
とてもピュアで今でも親しみを感じる作品ですね。
お父様のお話を初めて聞きましたが、もし長生きされてこのような作品を少しでも作り続けておられたら、、、、 需要はありそうですし、作る楽しみも味わっていただけたかもしれませんね。
森里さん
だからなんでも上手にやっとけばね。これもその当時ウケたかどうかわからないですけどね、今とかやったらちょっとおもろいなっていう感じの感覚にはなるんですけどね。当時は、多分そうはならないような気がするんですよね、これを作っても。だから、うまく当時の生産ラインに乗っていかなかったんだろうなっていう気はしますね。
実はその、うちの父親が走泥社に入るきっかけっていうのは、川島幸三さんなんです。川島さんの妹さんと、うちの叔父、陶楽が結婚したの。まあまあ言うたら、親戚関係になるんですね。それで、弟がそんなんやってるのやったらと、引っ張ってくれはったような感じなんですよ。だから八木一夫さんを紹介してくれはったんやと思うんです。川島先生も走泥社の初期のメンバーだったので。
清水さん
走泥社のあと川島さんは、どうされたのですか。
森里さん
炭山へ移って工芸村というのを作られたのです。村というか、工房と長屋のマンションみたいな住居を作って。うちの叔父もそちらに移りました。さらにこの辺で石膏型を作っているおじさんと陶芸を作っていた息子さんも一緒に移ったそうです。
清水さん
当時は、この辺りにたくさん作陶している人がいたのですね。
森里さん
そうやね。
当時ここの前は砂利道だったんですよ。磁器を作っている人も多くて焼いた土をみんな道路に捨てていましたね。この辺の道路を発掘したらほぼほぼ焼物しか出てこないかも。この辺で作っていた人の器とか出てくるのではないかな。
清水さん
次は、昭和30年代をテーマにする予定をしていまして、お父様の他の作品となると難しいですかね。
森里さん
今整理していこうかと思っているところです。実は、まだあるのはあるのですが、完品というのがないのですよ。今回の作品のように、小さなパーツが作品に色々とつけてあるのですがそれが取れてしまっていて。僕が小さい頃に全部潰していったみたいです。。。
清水さん
笑
森里さん
せやから完品がなくて。本当は「虫」という作品が朝日陶芸展かで賞を受けたのですが、それもあまりにも繊細な作品すぎて、色々な部分が取れちゃったりとか、欠けたり割れたりとかしてるもので。一応今眠っていることは眠っているのですけど、あまりにも破損が激しくて。一応また見ておきます。
